母校支援

波瀾万丈の会社員時代を振り返る

ここ数年、シニア割引料金で映画を楽しめるようになりましたが、ふと、シニアとは何歳ぐらいを指しているのか疑問に思い検索してみました。「国連では『シニア』の定義を60歳以上、WHO(世界保険機構)では65歳以上と定めています。」という一文が目に入り、確かに自分はシニアだ、と納得。

最近は、分からないことは手元のスマートフォンやタブレットに話しかければ音声検索で簡単に調べられるようになり、若い頃と比べ随分と便利な時代になったなぁと痛感します。定年退社した後、自由になる時間が増えたこともあって、散歩をしながら会社員時代を思い起こしてみました。


散歩途中の道からみたスカイツリー(東京パラリンピック閉会式当日)

入社後5年間、激動の日々を経てようやく希望の部署へ

思い返すと、工業高校電子科から電機大学電子工学科へ進学した自分にとって、大学と高校の専門教育の大きな違いは、物事を基礎から深く論理的に考えるということでした。

大学時代は実験レポートの考察検討に苦しみ、夢に出てくるほど悩んだものですが、おかげで自ら考える力が育成され、激動の会社員生活を何とか乗り切る大きな助けになっていたと実感します。

大学を卒業後、東京に本社がある工業計器・プロセス制御システムを主とする電機メーカーに就職しました。希望する職種はセールスエンジニアでしたが、新人研修後に配属された部署はなんと純粋な営業部署でした。

さらに入社数年後、所属部署が国内販売会社として子会社化され、当の本人は出向に・・・その子会社も設立数年後に親会社が合併したため解散となってしまいました。

幸いにして合併後は親会社に復帰でき、ようやく入社当初の希望であったセールスエンジニア部署に配属されたのも束の間、半年後にはコンピュータ製品に力を入れるために新設された、セールスエンジニアサポートのためのコンピュータ関連部署へ異動。入社後約5年弱の間は異動の連続で、そのたびに「ガーン‼」というまるで漫画の中のような衝撃音が頭の中で鳴り響いていました。

まさかのコンピュータ関連部署で奮闘と葛藤の日々

出来るだけ避けたいと思っていた部署へ異動になるとはなんとも皮肉でしたが、とにかく早く独り立ちするために毎日必死でした。分からないことは、詳しい同僚に聞きまくり、特に一番の相談相手となってくれた友人には、1日に20回以上電話をした記憶があります。彼とはもう40年近くの付き合いになっていますが、メールのない時代とは言え、よく相手をしてくれたものだと今でも深く感謝しています。

コンピュータ関連部署に異動後暫くして、今度は突如、関西支社への転勤命令が!この支社でもコンピュータに力を入れるための人員増が目的でしたが、まるでドラマのような激動の日々でした。


40年来の友人と深大寺にて〜緊急事態宣言解除後久しぶりの外食

部署変更や転勤は会社員の宿命とはいえ、関西へ転勤後2年半程度で東京に戻ることにはなるのですが、その際の辞令も急な話で、やりかけの仕事を完遂できず非常に残念な気持ちを抱えて支社を後にしました。

急な転勤で落ち込んだ時に読んでいた本の中で次の言葉に出会いました。

「面白くこともなき世を面白く、すみなすものは心なりけり」

ご存知の方も多いと思いますが、高杉晋作の辞世の句と言われているものです。当時自分の思い通りにならないことが多かったことに対し、この言葉との出会いで気持ちを切り替えられたことは良い経験と財産になりました。

変化のスピードに対応しながら、職責を全う

東京に戻ってから扱う製品の変化スピードは年々早くなりました。今では聞かなくなったミニコンピュータと呼ばれる担当コンピュータ関連製品は、自社製専用ハードとその上で動く自社製専用ソフトウェアを組み込んで製品化していました。

年々汎用ハードの比率が多くなり、OSもUNIXをベースとするソフトウェア提供がメインになっていましたが、会社も世の中の変化に対応し、グローバル競争力を確保するため、主要システムを自社製専用ハード&UNIXベースシステムから、Windowsベースシステム製品へと大きく舵を切ったのです。

このタイミングで、お客様にソリューションを提供するためのWindowsソフトウェアパッケージ製品が企画されました。この製品は、グローバル展開を目指す製品でしたが、なんと、国内でコンピュータ関連製品に長く携わっていた私が責任者に任命されたのです。今までで一番大きな衝撃を受け、もっと英語を勉強しておけば良かったと心底後悔しました。

2000年にパッケージをリリースして以降、機能アップだけでなく、OSのアップデート追従、脆弱性やセキュリティ問題対応等次々新しい問題に直面することに・・・

時間は瞬く間に過ぎて行き、気が付けば責任者を後任に引き継ぐ時期を迎え、一年間新責任者をサポートしながら定年を迎えました。「忙しい」という漢字は心を亡くすと書きますが、製品責任者を担当し、多忙のあまり見えなくなっていたことも多かったのではないかと今になって反省しています。

変化し続ける世界で、卒業生の活躍に期待

どのような会社でも世の中の要求に追従すべく、生き残りをかけ、懸命に変化を続けています。日本は資源のない国で、世界を相手に生き抜くためには先端技術や高度なモノづくりが必須だと思っています。東京電機大学で学んだ人たちが、世界の変化に柔軟に対応し、日本の発展のために色々な場所で活躍されることを期待しています。

大学卒業後も、地元に戻った同級生が上京すると声をかけてくれます。久しぶりに友人たちと集まると、一瞬で昔に戻れる気がします。人とのつながりも人生の財産だと噛みしめ、楽しいひと時を過ごせることにも幸せを感じています。コロナ禍で自由に友人に会えない期間が長くなっていますが、少しでも早くwithコロナとともに気軽に同級生と会えるようになることを願うばかりです。

1977年卒業
工学部電子工学科
安達一弘