母校支援

教員の一言で目が覚めた!

「小を積んで大と為す」

これは二宮尊徳の言葉です。こつこつと小さいことを積み上げていけば、やがて大きな成果になるということを示しており私の最も好きな言葉です。その心構えで今日まで歩んできたことを振り返り、少しお話をさせていただこうと思います。

教員生活42年!

私は都立工業高校卒業後、実習助手の職に就き、翌年から東京電機大学工学部第二部機械工学科に入学しました。大学卒業後、東京都の教員採用試験を受け、都立工業高校の教員として教鞭をとりますが、その後の管理職経験も含めると、合計42年間も東京都に奉職していました。

定年退職後は都立高校非常勤教員を3年間、その後大学の非常勤講師として現在も東京電機大学及び他大学で教職の授業を担当し指導に当たっています。

実はスキー部に所属していました

高校を出たばかりで、いきなり教員と同等の仕事をすることになりました。当時、機械科の実習助手は私を含めて4人。私を除く他3人は企業経験のあるベテランの先生方で、専門的知識や技術・技能がとても優れており、様々なことを教わりました。私が教員になってから自信を持って授業ができたのもこの間の蓄えによるものです。

二部に通う間、昼間は実習助手の仕事、夜間は大学で学ぶという目まぐるしい日々でした。当時の東京電機大学は神田(錦町)にキャンパスがあり、1日3コマ、1時限が70分の授業時間で午後5時30分から始まり、3時限目終了は午後9時20分。終了時間がすでに遅いのですが、実は授業終了後に部活動も行っていましたので、授業が終わるとすぐに着替えてトレーニングに参加していました。今思い返すと良くやったものだなぁと我ながら感心します。

所属していたのは、スキー部。スキーの経験もないのに入部し、その後岩岳学生スキー大会に2回出場しました。練習時間は、午後9時30分から1時間程度と僅かな時間ですが、皇居一周を走ったり、北の丸公園で基礎練習に励みました。大会の成績は振るいませんでしたが、4年間取り組んだ成果として、SAJ(※1)やSIA(※2)の技術検定を取得するに至ります。教員になった際、スキー教室やスキー修学旅行などで役立つとは思いませんでした。

参考までですが、スキー技術の検定内容は上級になるほど難易度が上がり、当時、SAJの2級は70日間、1級は90日間、スキー技術を練習しないと合格できないと言われていました。資格取得までの間、軽度の怪我等もありましたが、検定合格後は技術面と精神面が格段に向上しました。また、一般的にスキー場の滑走コースは、圧雪されていますが、様々な雪の状態(新雪・深雪・湿雪・雪面凍結・凹凸など) において、スキー場全ての斜度を安全に滑走できる技術をも体得することにも繋がるのです。

※1 SAJ 公益財団法人全日本スキー連盟(Ski Association of Japan)の略。
1922年に大日本体育協会(現在の日本体育協会)内にスキー部が設けられたことがスタート。プロ(インストラクター含む仕事にする人)やアマ(選手や一般スキーヤー)問わずに様々なスキーヤーが所属する団体で、「SIA」はプロスキー教師(インストラクター)が所属する団体です。
http://www.ski-japan.or.jp/educations/

※2 SIA 公益社団法人 日本プロスキー教師協会。
1968年に日本職業スキー教師連盟として設立。国際スキー技術検定を通じてプロスキー教師(インストラクター)が所属する団体です。検定種目や斜面設定が決められており、幾つかの基準に基づいて検定が行われています。
https://www.sia-japan.or.jp/medal_it

先輩の助言にショックを受けたものの・・・

 今でもはっきりと覚えているのは、担任になって先輩教員から助言をいただいた一言。「担任は、入学した生徒を全員進級・卒業させることは当然であるが、時には生徒を辞めさせる仕事もある」この言葉は大変衝撃的でした。

生徒にとって最良の教育を考えることが担任としての務めであるが、時には生徒のために心を鬼にすることも必要であると教えられたのです。この時の助言をしっかりと心に受け止めた瞬間でした。

教員生活を送る中、40歳のときに教育管理職試験を受験。3度目で合格し1年間教員として授業を行いながら教頭任用前の研修を受け、翌年教頭に昇任します。教頭として最初の赴任先は、工業高校の定時制です。都立高校改革推進計画第1次に示された統廃合の該当校でした。そして2校目の学校も統廃合の対象で、全日制の工業高校でした。

平成16年度以降、教頭の職名が「副校長」になりますが、それでも自身の役割が変わることはなく、羽田地区・大田地区・八王子地区の新たな学校づくりに関わり、校舎建設、実習設備、教育内容に至るまでの手伝を通して「学校を創る」という経験をさせていただきました。様々な地区で活動をすると月日はあっという間に過ぎるもので、気が付けば校長になっていました。

ところがある日、赴任した学校の教員から「校長の考えが分からない」という意見がでました。大変ショックでした。同時にどこに問題あったのかを私なりに考えました。行きついた答えは、明確な考えを示していなかったことでした。このことが原因で進むものも進められなかったのです。

直ちに学校の特色を生かす方針として、自信と力を付けさせることを目的に、「資格取得とものづくり」をキャッチコピーに掲げました。内容は、生徒に電気工事士の国家資格を取得させ、手に技術を持たせることです。第一種と第二種の2種類がありますが、合格率は5割~7割弱とはいえ、内容がしっかり理解できていなければ合格できません。

この施策が功を成し、電気工事士の資格取得では、東京都でトップクラスに!さらに2校目の学校では、学校の教育方針に、「専門家を育てる専門科」「何かで一番になろう」など、生徒に分かり易いもの、そして中学生や外部の人が見ても分かる内容を意識するようにしました。

先生方も苦労する部分があったと思いますが、ともに取り組んできた成果が卒業式の答辞に表れた時の気持ちは、言葉にならないほど私自身はもちろんのこと、先生方も嬉しかったはずです。その言葉を聞く度に校長をやってきて本当に良かったと実感したことは言うまでもありません。

定年後は広報担当として、そして現在は・・・

定年退職後の3年間は都立総合学科高校で主に広報担当として勤務しました。内容は、学校見学の案内、中学校に出向き学校紹介や出前授業を行うことなどです。また初任者研修に該当する教員の授業を随時参観し若手教員の育成指導にも当たりました。

現在も東京電機大学において将来の工業科教員を目指す学生たちに「工業科教育法」「職業指導」「工業技術概論」の授業を行っていますが、これまでの経験が大変役に立っています。受講している学生は普通科高校卒が大半で、工業高校卒は僅かではあるものの、皆真剣に取り組んでいます。私の授業を受けた学生が一人でも多く工業科教員となって、今後の日本を担う職業人を育てて欲しいと心から願うばかりです。

私が担当する授業を通して、電大の建学の精神である「実学尊重」そして教育・研究理念の「技術は人なり」を学生たちにしっかりと伝え「ものづくりは人づくり」を継承できる工業科教員の育成に尽力していきたいと思います。

今回、私の歩んできたことについて振り返る機会を与えていただいたことに感謝申し上げ結びとさせていただきます。ありがとうございました。

 

1977年卒
工学部第二部機械工学科
豊田 善敬