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まさか自分が副市長に?!

初めまして。1984年理工学部建設工学科卒業の星野拓吉です。現在は、神奈川県の三浦市で行政に携わり副市長の職についています。皆さんには馴染の少ない職だと思いますが、これまでの経歴や経験が皆様の参考になればと思い、書いてみました。

一言目は「えぇっ!!」 まさか自分が?!

そもそも副市長はどのように選任されるかご存じでしょうか。副市長は市長が指名し、市議会の同意を得て選任されるのです。仕事としては、特別職の地方公務員という位置づけで、「市長の補佐」として「市役所職員の事務を監督する責任者」となり、市長が不在の時はその職務を代理します。規模の大きな自治体では、複数の副市長がいらっしゃる場合もありますが、三浦市では私一人です。

選任の打診をいただいたときのことは今でもよく覚えています。2017年6月に行われた三浦市長選挙後のことです。現在の三浦市長(吉田英男市長)が4期目の当選を果たし、迎えた7月の市議会定例会の会期中に市長と当時の副市長から話があると呼び出しを受けたことが始まりです。

内容はというと・・・

私:「どのようなお話しでしょうか・・・」

市長:「次の副市長をやってもらうから」

私:「えぇっ!!」

市長・副市長:「家族以外、だれにも話さないように。明日返事をするように」

私の反応からもわかるように、頭の中は人生最大のパニックです!

部屋を出ると、「副市長なんて無理!」「ほかに○○さんも、△△さんもいるのに、なんで自分?」「断ったら、市役所をやめなければだめか?」頭の中をグルグルいろんな考えが巡るばかりです。しかも家族以外まだ話すことはできませんので、その日は仕事も手につかず一人心の中で頭を抱えていました。

仕事を終えて家に着くなり早速妻に報告です。それでもまだ落ち着くことなんてできません。一人ではこの事象を処理しきれないため、信頼できる幼馴染の親友にこっそり相談しました。彼は地元で事業をしており、どうしたものかと話すと、答えは「絶対に受けろ!こんな機会はない、応援するから是非とも受けるべきだ!」でした。その言葉に背中を押されたというのでしょうか、私の腹も決まりました。

それから数日間は役所内で繰り広げられる、次期副市長の噂話にも白々しく加わる日が続きました。そして迎えた議会の最終日。本会議で承認され副市長になることが正式に決まったのです。同年の7月25日に三浦市職員を退職し翌26日には三浦市副市長に就任しました。57歳になる年でした。任期は4年間で現在は2期目の1年目、60歳の知念の年です。ただし、副市長に定年はありません。

公務員の道を進むきっかけは知り合いからの情報でした

高校生の頃、建設会社のコマーシャルで「地図に残る仕事。」という内容のものがあり、単純に目に見えるモノづくりにかかわる仕事をしたい、人々の生活の役に立ち、多くの人が利用するものを作りたいという思いから電機大学で土木技術者を目指しました。

大学では同級生に誘われるまま落語研究会に所属し高齢者施設等への訪問、文化祭や発表会での公演、他大学との交流など様々な活動を行いながら、落語の話芸を通じて人に自分の考えを伝えることも学びました。

就職を考える時期には、「利益を上げるために仕事をする」という民間の立場の方が仕事をする目的が明快だと考え、ゼネコンへ就職しました。この時点では公務員になることは全く考えていませんでした。

就職後は、青森県でトンネル工事、福島県で干拓地の冠水対策工事、山形県ではダム工事、横浜市は住宅地の造成工事のほか、下水道工事、公園整備工事などを行い、その後に地元の小規模建設会社に転職し鉄道関連工事や下水道工事など様々な施工に携わってきました。

そんな折、知り合いから「三浦市役所下水道事業の着手に伴い土木技術職の採用枠を広げたので応募してはどうか」という話をいただきました。それまで公務員になることを考えてもいなかった自分ですが、結婚して2人目の子供も生まれていたので、少しでも生活が安定したほうが良いと考え、公務員の道を選ぶことにしたのです。平成4年(1992年)31歳の時で結果的に好景気のバブルがはじけた頃のことです。

聞き手の立場に立ち、聞き手の気持ちを意識して伝えることが重要

私が勤める三浦市は神奈川県の南東にあり、東京湾の入り口に位置した3方を海に囲まれた比較的温暖な土地です。南の三崎港は昔から遠洋漁業が盛んで「三崎まぐろ」でも有名です。一方、農業も盛んで「三浦大根」「三浦スイカ」が名産品として挙げられます。「三浦海岸の海水浴場」「城ヶ島・油壷」の観光地など見どころ満載で、たくさんの方に訪れていただいています。

一方で、加速度的な高齢化と人口減少対策、市の産業の活性化そして効率的な行政運営のために、1次産業と2・3次産業の連携、行政のDX化、下水道等公共事業の民間活力の導入、近隣市町との事業連携そしてコロナ対策など多岐に渡り進めていますが、各事業の実現に向けた動きをすること、これまでの土木職の経験を活かした土地利用の計画の推進や幹線道路整備の促進、下水道事業の経営権を民間に譲渡し運営するコンセッション方式の導入等の推進が必要であり、私はその実行のために副市長に任命されたと思っています。

公務員になって感じたことは、

① 市民からどのようにみられるかを意識することが大切
② 市役所の仕事は市民生活すべてが対象
③ 民間の会社の時より自分で考えたものを形にできる

といったことが挙げられます。

最近では市役所のことはもちろんのこと、コロナワクチンに関することや給付金の受け取り方法といった様々なことをご年配の方を中心によく聞かれます。先輩に教えられた「自分は住人の皆様に納めて頂いている税金から給料をもらっている」という事実を忘れず、できる限り対応することにしています。とはいえ、実現の難しい「声」を寄せられることも事実ですから、それは正直に伝えるように心がけています。

しかし、現実はスムーズに進めることは難しく、日々起こる様々な問題や事務的不備への対応、特にこの2年間はコロナウィルス感染拡大の影響への対応に追われています。三浦市の将来のために働くことが私の使命だと考えていますが、何が市のためになるのかは数年経たないと答えが見えないのかもしれません。

今は、ひたすら自分の力をフルに生かし、できる限り多くの関係する事柄に思いを巡らせて、考えられる最善策を見極めて実行していこうと思っています。

そのためには、多くの市民の皆さんや市役所職員、関係者との意見交換が重要です。将来のために求められるもの、そしてそのために残すべきものは何か、変えるべきものは何かを関係者と見定めなければなりません。その時に必要となってくるのが課題の整理と分析・考察に基づく解決策の検証と手法の選択、そして実行という科学的な思考です。

市政の課題への対応も同様で、それを市民の皆さんや議会等関係者に言葉で説明しなければいけませんし、事業の実施には自らの想いを分かりやすく伝えることも必要になってきます。いくら、世の中のデジタル化が進んでも人間には感情があるからです。人に同じ原稿内容を一字一句違わずに話したとしても、話し手が変わると、受け方が異なることを私は大学時代に所属していた「落語研究会」の活動で多く経験しました。

同じ古典落語を話しても演者によって受け方が違います。聞き手の立場に立ち、聞き手の気持ちを意識して伝えることが大切であり、また、市役所も市民の方や業務を行う職員に気持ちを伝えて理解を得ることが最も重要だと思っています。

今までの経歴でもわかるように私はこれまで自分の意思を強く持って進む道を決めたことは少なかったかもしれませんが、重要な岐路に差し掛かった時、周囲の人からの助言やアドバイスをもらって、その時にできることを行ってきました。これからも東京電機大学の理念である「技術は人なり。」を実施するために、多くの方に思いを巡らせながら想いのこもった技術を使っていきたいと思います。

1984年卒業
理工学部建設工学科
星野 拓吉