母校支援

存在価値を高める2ndライフプラン

みなさんこんにちは。昭59年(1984年)理工学部経営工学科卒業、岩城宏之(イワキ ヒロユキ)です。2017年11月に開催された関西支部総会で兵庫県支部長を拝命し現在に至ります。

大学卒業後は三菱電機コントロールソフトウエア株式会社(現三菱電機ソフトウエア株式会社)に就職し、2021年3月に定年退職するまで37年間、SE業務や事務職など様々な部署で経験を積んできました。再雇用制度は使わず、退職後の翌月には新たなスタートを切り、現在は介護福祉タクシー&寄り添いサービス(生活支援)を開業し充実した日々を送っています。

今回は、定年後の経験をもとに、まだ定年を迎えていない卒業生の皆様を中心に、参考になればという思いを込めて執筆したいと思います。どうぞ最後までお付き合いください。

学科名で選んだ東京電機大学

幼少期より、いつかは会社経営をしてみたいという思いがあり、大学進学を考えた際、両親は国公立大学を希望していましたが、内容重視で様々な大学情報を見ていくうちに東京電機大学経営工学科に興味を持ち、受験。そして1980年4月、理工学部経営工学科に入学しました。

ところが、実際の授業では、学科名から受けるイメージとは異なり、情報処理システム・制御に係わることを勉強した記憶があります。ただし、現代制御理論は、会社に入っても大変役に立ちました。

研究室は、福井康裕先生の研究室(なんでや会)です。先生の地元が神戸市ということもあり、コロナ禍を除く、毎年1月第2もしくは第3土曜日に福井先生と共同研究者であり神戸市内で開業医をされている、河村剛史先生を囲んで新年会を開催しています。

きっかけは喫茶店のカレー

定年まで勤めた会社は神戸市兵庫区に所在する三菱電機神戸製作所の中にありました。84年から2010年頃までSE業務を約27年間担当、その後、技術畑から事務畑に転向し、経営企画・売上管理・受注管理・経費管理・固定資産管理・事務所開設・契約書締結・業者への発注など、事業所長直属の事務組織に約10年勤めました。

そんな中、入社早々に一本の電話がかかってきます。

「田中工業の田中というものですが、今度の土曜日は出勤ですか?」

自分:「はい、出勤です」

田中氏:「それではお昼休みに会社外の喫茶店であいましょう」

と短いやり取りの後、なんだろうと思いながら指定の喫茶店に向かいます。

喫茶店でのお話は、「電機大学OBで関西支部があります。若手に入って欲しいので、ぜひ幹事になってください。」というものでした。田中さんは三菱電機構内の社内電話工事などを請け負う会社をご経営されており、総務を通じて私を見つけたそうです。

関西支部が4府県支部(大阪府支部、京都府・滋賀県支部、兵庫県支部、奈良・和歌山県支部)に拡大した時の初代兵庫県支部長が田中さんです。お話を伺った際にごちそうになったカレーライスがご縁で私の校友会活動がスタートし、今に至ります。


※写真:2020年2月8日 関西支部「和歌山総会・出席者幹事の反省会&京文化研究会」での一枚。
この時、街中からマスクが無くなり、新型コロナウイルスとの戦いが本格化した。

定年後のことを考え行きついた「やりたいこと」

50歳頃より、「会社を通じて社会に貢献はしてきたけれど、地元への貢献をすべきでは」と感じていました。そのきっかけというのでしょうか、芦屋市内に実家があり、父の介護をした経験から地元のお年寄りをサポートしたいという思いが強くなっていました。

また、校友会の諸先輩が会合で、「定年になって給料が半分以下になった」、「いや、半分どころではないよ」という会話も聞こえてきたりと、自分が務めていた会社も例外ではありませんでしたので、早々と定年後について自分なりの考えをまとめていきました。

例えば、

・定年退職の挨拶翌日に、同じ席で同じ仕事をして給料が半分以下はまっぴら。

・会社は希望しても65歳まで。男性の平均寿命は81歳程度、健康寿命は72歳程度であり、私は生涯働くことにより健康寿命を延ばしたい。

・退職後、「死ぬまで何をしていたいか?」と自問し、出した答えは「人のために働きたい。また、車を運転する仕事がしたい」

といったことが挙げられ、やはり新たなスタートを切るしかないという結論にたどり着いたわけです。

また、就職先は東京ではなく、車を購入・維持できる実家から通える会社を選ぶほど小さい頃から車が好きだったことが起因しています。

その頃からでしょうか、定年後に係わる書籍にも目を通すだけでなく、ハローワークや年金事務所に行って手当額や年金額もしっかり調べました。その時に知ったことは、失業手当については、「退職直前6カ月の給料をベースに5割~8割程度」ということです。

定年を数年後に控えたころ、会社から「会社に最低1年は残ってくれないか」と慰留されましたが、失業給付金が大幅に下がることもわかっていたため、お断りをさせていただき、「最後の1年間を引き継ぎに充てたいので1名職場に入れてください」と、お願いし、これまでの業務内容をすべて引き継ぐことにしたのです。

まさかの出会い

定年直後の4月中旬から2か月間、「介護職員初任者研修」という、介護資格を取るために専門学校へ通った後、6月から7月初旬にかけ自動車2種免許を取得しました。地元のために働きたいという気持ちは強かったため、芦屋市内のデイサービス会社が募集している施設の送迎ドライバー兼介護職員に応募し、採用されました。

ところが、この会社は隣の西宮市内にも施設を持っていることがわかり、会社都合でこちらにパート勤務することになりました。そこである出会いがありました。

送迎先の施設を利用されているご婦人ですが、なかなか施設のレクリエーションなどになじまず早く帰りたがる誇り高い方で、最初は取っ付き難かったものの、その方とおしゃべりを始めると、なんと、東京で生まれ東京電機大に通った大先輩だということがわかったのです。

私は、校友会に対して守秘義務誓約をし、県内の卒業生名簿を2017年総会時に受け取っていましたので、卒業年度が古い順の上の方にその女性の名前があったことを思い出しました。

すぐに「私も東京電機大卒業生ですよ。」と言いたかったのですが、話を合わせているだけだと思われるかもしれないと思い、校友会事務局長にお願いし総会で配る記念品と工学情報を送ってもらいました。

後日、送ってもらった記念品と工学情報を持って、施設内別室にお連れし、「私も電大卒業生です。校友会からの記念品と工学情報をどうぞ。」と、お渡ししたところ、ご婦人は「まあー!」と、大変嬉しそうなお顔をされ、電大時代の思い出を懐かしそうにお話されているのが印象的でした。

その日のデイサービスが終わり、施設からご自宅に帰る頃には、「私はこの施設が好きになりました」と、これまでの施設に対する印象も変えてくださいました。大変嬉しい限りです。

その後も様々な出会いがある中、新たに国土交通省(国土交通省近畿運輸局)から介護福祉タクシーの経営許可を得た後、開業準備に取り掛かり、22年2月より介護福祉タクシー事業と、会員制寄り添いサービス(生活支援)事業を開業しました。

約4か月が経過し、売り上げはまだまだながら、1世帯ずつお客様が増えている状況です。私を待っているお客様がいて、サービスを通じて「ありがとう」の言葉と価値を認めてもらえる。これが一生続けられると思うと、毎日が楽しくて仕方がありません。

しかし、今後脱サラや起業を考えている方は注意が必要です。売上が立たない期間の家計費で自己資産を食いつぶさないよう、初めにしっかりとした事業計画を立てておくことをお勧めします。脱サラをして同志と会社を立ち上げたはいいけれど、売上が思うように立たず、会社資産が無くなり解散という事例はごまんとあるようです。

「大丈夫。心配するな。何とかなる。」

 みなさんは「大丈夫。心配するな。何とかなる。」という言葉をご存じでしょうか。一休和尚が残した言葉ですが、このメッセージに込められたエピソードを京都の祇園に店を構える女将さんに教えて頂きました。

バブル崩壊後にごひいきのお客様がパタリとお見えにならなくなり、しばらくしてからお亡くなりになったことを耳にしたそうです。その方は仕事を理由に自らの命を犠牲にしてしまったそうで、そんなことがあってはならないと考えている女将さんは、店の隣にある建仁寺の管長に「どうか思いとどまらせる言葉はないものか」と相談に伺った際に書いて頂いた言葉なのだそうです。

一休和尚のお話とは、

昔、最晩年の一休和尚が、若いお坊さんたちを集め、3本のお軸を渡しました。「将来、困ったことが起き、どんなに努力しても協力しあっても、二進も三進も行かない時、このお軸を1本ずつ開けていくように」と言い残したそうです。その後、お坊さんたちにとって本当に困り果てる状況に陥ってしまい、一人のお坊さんが

「そうだ、一休和尚が託した3本のお軸を開けましょう」

そう言って順にお軸を開けていくと、そこには、

「大丈夫」

2本目をシュルシュルシュル。

「心配するな」

そして3本目。

「何とかなる」

と書かれていたそうです。

人生は一度きりです。無駄な経験など何一つありません。私自身、開業して毎日を一生懸命頑張っていますが、みんな引き出しになっているとつくづく体感しています。どうか皆さんも自分の脳みそで考え、素晴らしいセカンドライフを築いていってください。

1984年卒業
理工学部経営工学科
兵庫県支部長
岩城 宏之
ヘルパーランド芦屋URL
https://r.goope.jp/helperlandashiya