母校支援

「自分」という存在を大きくしたプログラミングとの出会い

片道2時間の通学とパソコンに明け暮れた高校時代

私と東京電機大学との繋がりは、幸いにも高校(東京電機大学高校・東小金井)から始まりました。遡ると、小学生時代からプログラミングに興味を持ち、中学校では当時まだ珍しかったパソコンとその部活動があることを知り、喜び勇んで入部して日々プログラミングを楽しんでいました。

高校進学にあたり、地元には情報科が無く、自宅から近い普通科がある高校に進学しようと検討していたところ、パソコン部の先輩が東京電機大学高校に進学することを耳にしたことが、電機大学との関わりの始まりです。その後、無事に電機大学高校に合格したものの、思いも寄らないことの連続でした。

まず、通学が大変でした。当時、電車の相互乗り入れなどが進んでいなかったこともあり、実家から電機大学高校のある東小金井駅まで片道2時間。毎朝5時に起き、6時10分頃の電車に乗って通学していたので、毎日が小旅行のようでした。幸いなことに、電車の中では座れることが多かったこともあり、1時間は眠ることができました。

また、当時、WWW(World Wide Web)の発達のおかげでインターネットに手軽に接続できたので、私もインターネットにどっぷりとハマりました。

ただ、その頃のインターネットは、記憶が残っている方も多いと思いますが、固定電話の電話回線を使ったダイアルアップであり、プロバイダまで音声通話と同じ電話料金が発生していました。そこで、親を説得して、クラスメイトから教えてもらった「テレホーダイ」というものに加入してもらいました。

テレホーダイは、夜11時から朝の8時までは定額制で電話し放題のサービスです。それ以外の時間帯にインターネットを使おうものなら、通話代がかかることになります。

しかも、当時のインターネット接続速度は56kbpsで、私よりも更に前からインターネットを利用していた諸先輩方の14.4kbpsより随分速かったのですが、いずれせよ、今の速度とは比べ物にならないことに驚きを隠せません。56kbpsでも、今の携帯電話の5Gの通信速度である1Gbpsに比べると雲泥の差ですから。

もちろん、当時のWWWで公開されている情報は、今のように映画館並みの画質で動画が公開できるYouTubeやリアルタイムで頻繁にやり取りできるSNSのような代物ではありませんでした。その通信速度で表現できる最低限のものがほとんどで、文字列や簡単な画像ばかりです。

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※インターネットに勤しんだころに使っていた初めての自作PC(高校2〜3年生頃?)

高校時代には、デジタルカメラやスキャナなど、パソコンに入力する機器も大きく発達し、写真やイラストも掲載され、WWW、インターネットの変化を速度とコンテンツ両面で体験することになりました。

その後、技術は進化し、IDSNやADSL、FTTHなどの登場で、より高速でしかも低価格でインターネットが利用できるようになりました。当時は、現在のようにスマートフォンだけで仕事ができるくらいICT(Information and Communication Technology)が発達し、それに関連する仕事に就くことになるとは、考えられなかったと思います。

話がだいぶ逸れましたが、インターネットは基本的にテレホーダイの時間帯しか使えませんでしたから、11時から使い始めると、パソコンが大好きな私は楽しくて止められなくなり、寝るのは大体1時になっていました。5時に起きなければ学校に間に合わないため、平日はほとんど4時間睡眠。若いからこそできたことで、今では考えられません。

次に大変だったのは勉強です。私は一応理系で、その方向で進学したつもりでしたが、理系科目、特に数学や化学に付いていくのに大変苦労しました。そのため、成績は芳しくなく、夏休みにも登校して追試を受けることもしばしばでした。

そんな状況にも関わらず、勉強には相変わらず熱が入らず、睡眠不足でもパソコン、インターネット、ゲーム三昧の日々でした。そのため、電機大学へ進学できたものの、第二部の学部しか道はありませんでした。

結局、高校時代は勉強が二の次で、当然、成績が振るわなかったものの、科目別では、子どもの頃から好きだった音楽と、昔から興味の塊であった情報だけは、不思議と上位の成績を維持していました。それらはそれぞれ、趣味と仕事に生かすことになっている、とあの頃の自分に教えてあげたいです。

そんな高校生活は、今振り返ってもとても楽しかったと感じています。私の代から電機大学高校も共学になり、残念ながら、電子電機科と情報科学科は廃止され、私は普通科で3年間過ごしました。

とはいえ、電子電機科と情報科学科の片鱗は残っていて、授業で電子工作をしたり、エンジンについて学ぶ力学の授業があったり、もちろん、当時はまだ必修ではなかったプログラミングの授業もあったので、もちろん学ぶことはたくさんありました。そのまま地元の高校に進学していたら交流することのなかった人たちと日々、切磋琢磨できたことは、かけがえのない経験となったと思います。

最先端の情報技術を学んだ大学時代、そして、社会人へ

私が第二部の情報通信工学科へ進学した当時は、まだ神田校舎があり、引き続き、高校生活と同じように実家から通っていました。2時間はかかりませんでしたが、神田駅から意外と歩くので、通学は楽ではありませんでした。

また、二部へ進学したので、高校の担当教師からIT系の会社でのアルバイトを紹介され、そこで働くことになりました。こうして、昼間はアルバイトをしながら、夜は神田校舎で授業を受けるという4年間を過ごしました。


※在学当時、神田校舎がドラマ撮影で使われた時のものです

情報通信工学科では、3D制作やアセンブラ、Webアプリ制作、動画編集、インターネットにおけるセキュリティ、ルーターを使ったネットワーク構築の実験など、当時としては最先端のカリキュラムを受講しました。また、時間ができると秋葉原に通ってはPCのパーツを探したり、電子工作の部品を調達したり、大好きなゲームセンター巡りをしたりと、楽しい学生生活でした。

卒業後はアルバイトをしていたITの会社にそのまま就職しました。総じて、高校生活から今までに得た、たくさんの電機大学・電機大学高校を通じた経験が、社会人生活に生かされていることを実感しています。

今後の目標〜情報技術を生かすために〜

昨今、70才まで働くことが当たり前となり、私のワーキングライフはまだ折り返し地点にも差し掛かっていません。現在、転職し、別のIT系企業で働いていますが、技術の進歩は未だに目まぐるしいものがあります。しかしながら、仕事をしていると、その技術やICTが十分に生かされていないと感じることが多々あります。

私の当面の目標は、そういった利用者と技術のギャップを埋め、企業としての成長をサポートするだけではなく、企業で働く社員がプライベートでもICTをより身近に、便利に、使いやすくするための活動を続けていくことです。


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私は幸いにもインターネットやパソコンの発達と共に社会人となったので、最近のいわゆるZ世代以降の方々とは体験してきたことが異なります。一方で、私よりも先輩の方々は、企業の中心的なポジションにいることも増えてきていると思います。私はミレニアム世代ではありませんが、私の経験やICTの力を通じて、そうしたさまざまな世代が交錯する企業を情報技術でサポートすることができれば、とても嬉しく思います。

以前、会社が協賛しているイベントで登壇した際に、東京電機大学の佐々木良一先生と同じ舞台に立つことになりました。本当に、縁というのは計り知れないものだと感じずにはいられませんでした。また何らかの形でお役に立てれば幸いです。

2008年卒業
工学部第二部情報通信工学科卒業
増田 立夫

文中のイベント記事
https://japan.zdnet.com/extra/security_vmware_201706/35103308/