母校支援

「技術は本当に人なり」と実感する人生

こんにちは。1991年東京電機大学理工学部数理学科卒業の吉原と申します。この度、校友会の卒業生ブログ執筆の機会をいただきました。今回は転職やリスキリングなど、新たな学びや経験値を得るためにゼロからスタートを考えている方々の一助となればと思います。

九州の旅で醸成された不思議な思い

高校時代は、特別に受験勉強をすることもなく卒業し、親戚のいる九州を旅しようと3カ月ほど福岡や熊本を転々としました。阿蘇や長崎を旅したとき、自然の大きさに圧倒され、自分の存在の小ささを実感。自分は小さいのだから、やりたいと思うことをやればいい、たとえ失敗しても所詮小さな存在の失敗に過ぎない、という思いを強く持ちました。

このとき醸成されたこの不思議な思いはこの後の人生で度々顔を出します。その後、図書館通いの生活を経て、東京電機大学へ進学し、「技術は人なり」という教育理念に触れることとなりました。

電大へ入学。様々な経験を重ねて

入学と同時にラグビー部へ入部しました。最初はきつく半年で10キロ近く痩せました。ラグビー部では多くの厳しい練習と公式戦を通じそこで出会った先輩、同期、後輩は大きな財産です。今でも時々飲み、楽しく昔話に花を咲かせています。

学科は数理学科で、当時は高校教師を目指していました。学科の仲間もとてもユニークな方々ばかり。すぐに仲良くなり、屈託なく様々な悩みや将来の話をしたことを覚えています。この仲間とも、卒業後時々飲んでいます。

ラグビー部菅平夏合宿にて(1987年右端が筆者)

転機は大学4年生になる前。ふと、このまま卒業してもいいのか、学生のうちに何をやっておくべきか、考え始めたことでした。前述の九州の旅で醸成された不思議な思いです。

考えた結果、思い切って渡米するため一年間休学することを決意。大学側は非常に寛容で、相談したゼミの先生も休学の手続きなどすぐに対応してくださいました。少しでも語学力というスキル(技術)を身に付ければ将来役に立つね、という先生のアドバイスは「技術は人なり」を体現していたのかもしれません。

米国には母方の親戚もおり、そこを訪ねればなんとかなると思っていましたが、長期滞在のためのビザがなかなか取得できず、米国大使館へ幾度も足を運ぶなど、今では考えられないような無鉄砲なことをやっていたと思います。

米国では、ミシガンの親戚の家を訪ね、6カ月ほど滞在しました。英語が全く分からず、そこでも自分の小ささ、無力さを痛感しました。英語アレルギーが少し解消されたくらいでしょうか。帰国後、まだ十分に英語を理解できるレベルでなく、渡米を後悔することもありましたが、これは後に生きてくることになりました。

ミシガン滞在時。弟も会いに来てくれました(1989年左が筆者)

帰国し、4年生から電大生生活を再スタート。同期は皆卒業していましたが、彼らは特別に私の写真を収めた卒業アルバムをプレゼントしてくれました。

教員免許取得のための教育実習を終え、いよいよ免許取得のため勉強をしなくてはと思ったとき、このまま教員になって教育機関へ戻っていいのか、企業に出て働く経験をしてからでもよいのではないか、と考えるようになりました。

またしてもあの不思議な思いが頭をもたげてきたのです。考えた結果、一般企業に就職することにしました。前年度に卒業した学友は珍しく金融業など製造業以外に就職していたので、そんな学友にも影響されたのかもしれません。就職先は大和証券のシンクタンクであった大和総研でした。

ゼロからのスタートでもコツコツが認められ英国駐在へ

大和総研へ入社できたのはよかったのですが、ここからが大変でした。周りは一流大学卒ばかり。本当にこの会社でやっていけるのか不安でいっぱい。ゼロからのスタートでした。

しかしこれまで培ってきた「所詮自分は小さい、できることを精一杯やろう」と「技術は人なり」を思い出し、淡々と仕事をこなすことにしました。

同期のほとんどがシステム企画部門や開発部門に配属される中、私を含む数人のみがシステム運営部門に配属されました。モチベーションは下がりましたが、まずはここで仕事ができるようになること、また、自分の知識が認められる公的な資格の取得を目標に「技術は人なり」の英語と情報処理技術者の資格をコツコツ目指すことにしました。

大きな転機が訪れたのは入社6年目。私の海外勤務希望と、それまでに取得していた英語、情報処理技術者資格を目に留めてくれていた上司が、私をイギリス駐在に推してくれたのです。

Bank駅そばロンドン駐在員時代の勤務先(1996-2004年)

1996年夏、ロンドン生活が始まりました。駐在生活と聞くと華々しい印象を持たれるかもしれませんが、実際は慣れるまで非常に大変でした。着任当初は、自分の思った通りのことを英語で現地社員に伝えることができず、仕事になりませんでした。他の駐在員の華々しい学歴・経歴にも圧倒され、またしてもゼロからのスタートとなりました。

ここでも「技術は人なり」。毎日Financial Timesを購入し電車内で読んだり、会議の議事録を積極的に取り、拙い英語を添削してもらったり。それらを繰り返しているうちに英語が身に付いてきました。学生のときの渡米で英語アレルギーが取れていたことも幸いしたようです。下手な発音は気にせず積極的に現地の方々とよく話していました。

駐在も8年目、20人弱の現地の部下を持つようになり、仕事も軌道に乗ってきたと思った矢先、帰国の辞令。帰国後、日本の組織に慣れるまでは時間がかかりました。基本的な社内手続きがよくわからず、他部署の年次が下の方々へ頭を下げて聞くところからのスタートでした。

その後、大きなプロジェクトへの参画など、実績を積み上げる機会をいただきました。ただ、そんな中にあっても、またいつゼロに戻るかというプレッシャーは常にありました。初心である「技術は人なり」を思い出しては、仕事の傍ら、英語や情報処理技術者資格の勉強を継続していました。

次の大きな転機は帰国後6年目、2010年の春でした。大和証券のシステム企画部海外システム部門への出向辞令を受けたのです。6年間、全く英語を使って仕事をしていなかったのでどうなることかと思いましたが、ここでもコツコツ身に着けてきた英語が役に立ちました。移動してすぐに海外出張を命じられ、その後も年に1、2回海外出張がありましたが、対応することが出来ました。

サイバーセキュリティ活動ではFS-ISACのグローバルワーキンググループ座長を経験(2017年)

そして2016年、面白い運命が待っていました。東京電機大学がCySecという社会人向けサイバーセキュリティ講座を開設したのです。当時、サイバー攻撃が企業にとって大きなリスクとなりつつあり、私も興味深く新聞記事を読んでいたところでした。

早速申込み、CySec一期生になり受講を開始したとき、次の転機が訪れました。社内で大きな組織編制があり、サイバーセキュリティ専門の部署を立ち上げることとなり、私が責任者に任命されたのです。母校電大での学び直しと昇進。不思議な縁でした。

サイバーセキュリティ責任者となってからは、毎朝4時半に起床し、世界のサイバー攻撃情報を収集し、毎朝役員へ報告するという厳しい毎日でした。当たり前のようにやっていましたが、会社がサイバー攻撃を受けたというアラートで、夜中に枕元の会社の携帯電話が鳴っても1コールで取る姿を目の当たりにしていた家内は、当時は鬼の形相で仕事をしていた、と振り返っています。

自分の市場価値は?新たな挑戦を決意

私には娘と息子がいますが、我が家は子育てには苦労していました。英国から帰国後、娘はもやもや病という難病を発症。手足に麻痺が残る生活を送っていました。

そして弟の息子が中3のとき、小児がんと診断されたのです。健康優良児と言われるほど元気だった息子のがん告知。私は家内とともに打ちのめされ、気力を失い、仕事への意欲も削がれ、精神的に追い詰められていきました。

幸い息子のがんは投薬治療で治りましたが、このとき、このまま猛烈に働き続けることでよいのか?と考えるようになりました。そもそも自分の市場価値はどれくらいなのか?もっと家族との時間や趣味を楽しめる人生はないのか?前述の不思議な思いがまた頭をもたげてきたのです。

当時51歳。部長職に昇格していた私は、思い切って退職し、市場価値を確認し、新たな挑戦をすることを決意。周囲からは、年齢や役職を捨てるなど正気ではないとか、様々な助言をいただきました。しかし、不思議なことに、人生は一度きり、自分はまたゼロになったら何ができるのだろう、それを試さないと後悔するのではないか、自分のスキル(技術)はどれだけの市場価値があるのかを確かめたい、という思いは全く揺るがなかったのです。

数社からのオファー。選んだのは独Bosch

人生初の転職は、エージェント登録から始まりました。最初は連絡がなく焦りましたが、そのうちたくさん連絡が来るようになり、中には大幅な年収増を提示くださる企業も複数あり、嬉しい結果となりました。

その中で、仕事内容を見て現職の独Boschへの転職を決めました。製造業界しかもシステム監査という新しい分野。今回もゼロからのスタートです。

現職の社是。ドイツ語で「テクノロジー・フォー・ライフ」
自分なりに訳すと「よりよい生活のためのテクノロジー」→「技術は人生なり」という意味。
電大の理念に似ていませんか?

独Boschの仕事は非常にユニークです。約80人以上の部門の同僚が世界中に配置され、世界中の拠点へ赴き監査を実施します。全て英語。会話力や文章力、そしてもちろんITの深い知識が試されます。全て自分で考え対応しなければいけません。1年の半分は海外出張という孤独との闘いの中で強い刺激を受けています。

そんな中、「技術は人なり」の基本は忘れず、仕事の傍らコツコツ勉強を続け、システム監査技術者と公認内部監査人(CIA)の資格を取得し社内でも一目置かれるようになりました。身についたスキル(技術)は決して自分を裏切りません。

振り返ると、仕事の傍らコツコツと勉強を続けることは、自分のスキル(技術)を磨くことに他ならず、それが認められ、企業に貢献できるかどうかで、自分の立ち位置が決まると実感しています。2021年からは独立行政法人情報処理推進機構(lPA)の試験委員にも任命されました。自分が若い時から取得を目指していた国家試験を今度は作る立場で務めさせていただくことに。これも面白い縁を感じています。

トルコ人と米国人でトリオを組む(2022年ドイツ)

話はがらりと変わります。大学卒業後、ラグビーからは遠ざかっていましたが、息子が小学校入学を機に地元のラグビースクールへ入会し、自らもコーチとなりました。息子が卒業した現在も、コーチ業に励み、コーチ歴は15年程、コーチやレフリーの資格も取得しました。

現在、ラグビースクールは約350人が在籍する大きな組織となり、この春からは私がこのスクールの代表に就任することになりました。これは全く予想していなかったことですが、趣味の世界でも「技術は人」なんだと感じた次第です。少しでも子どもたちの笑顔に貢献できるよう邁進したいと思います。

これまで家内には大変な思いをさせたと思います。英国でふたり子の出産、帰国後すぐの娘の病、落ち着いたと思った矢先の息子の病。そして私の転職。このスクール代表を引受けると伝えたときは何も言わず頷いてくれました。もう私のやることに呆れていたのでしょう(苦笑)。

生徒の試合でのレフリーを担当(2017年)

在学生に向けて

もし、在学生がこのブログを目にしていましたら、伝えたいことがあります。これから社会人になると、様々な学歴や経歴の方々と仕事をすることになり、困難に直面したり、自信を失ったりすることがあるかもしれません。

しかし、母校の「技術は人なり」を信じ、自分のスキル(技術)をコツコツ積み上げていけば、必ずそれが自分のステップアップの大きな力となります。電大にはそういったタイプの人が多いと思います。これからの人生、コツコツとスキル(技術)を積み上げる努力を怠らず、未来を切り拓いていきましょう。

1991年卒業
東京電機大学理工学部数理学科
吉原 敬雅