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「技術は人なり」から導き出された私の研究

近年、人工知能(AI)やメタバース、そして、シンギュラリティという言葉を頻繁に耳にするようになりました。特に、2050年頃に汎用AIが人間の知能を超え、技術的シンギュラリティが到来するという仮説に対して、各方面で様々な議論があります。

このシンギュラリティについて人々が強く関心を持つ根本的な要因はどこにあるのかなど考えながら、私の研究の紹介をさせていただきたいと思います。

常に不死願望への解決策を求めてきた「ヒト」という存在

人間には「死にたくない」「長生きしたい」という願望があります。これまで、永遠に生きたいという願望に対して、様々な宗教や哲学思想が解決策を示してきました。

たとえば、東洋では、古くから老子と荘子が、「天人合一(てんじんごういつ)」つまり、天(大自然・宇宙)に比べて短い人生を大自然と融合することにより人間は不滅で永遠となる、という解決策を考え出しました。

仏教・禅の解決策は人間の「心」の持ち方に工夫を凝らすことにあります。我々人間の心は、善悪、浄垢、大小、是非、生死など二つの相対するものを常に「分別」しようとしますが、それに対し、仏は「空」「不二」「生死即涅槃」などという、二つのものは区別されることなく、相即して成り立っているという見方を示しています。

これらの教義、つまり、老子や釈迦牟尼の教えが何千年にもわたり人類社会に計り知れない影響を与え存続してきたのです。

それに対して、シンギュラリティは、脳の情報(特に意識)をコンピュータにアップロード可能にするという、歴史上初めて情報技術などを駆使した不死願望に対する解決策を示しているのです。

人類社会の未来に本当に必要なことは何か?

では、シンギュラリティは本当に実現可能なのでしょうか?これについて、活発な議論や試みがありますが、私にはまだ正解がない、または不要であると考えていて、むしろ、視点を変えたらよいのではないかと思うのです。

つまり、「人類の持続可能な社会実現に向けて、人類が直面している主な課題は何か?」あるいは「人類の利益や人間の生存の確率向上のために、どのような技術を生み出せばよいのか?」と。コンピュータの歴史上重要な役割を果たしたJ.C.R. リックライダーは、1960年に、人間とコンピュータとの関係には次の3つの段階があると予測しています。

この第一段階のHCIは、私が東京電機大学で研究を続けた分野です。リックライダーの予測が出てから60年過ぎた現在もHCIの研究開発が盛んに行われています。この分野は、長年に渡り4つの波を形成しながら進化してきました。最初の波は、生産工学と人間工学を背景に、人間と機械の適合を最適化することに焦点を合わせたものでした。第二の波は、認知心理学に触発され、人間と機械情報処理間の類似点を強調するものでした。

第三の波は、HCIの社会的及び情緒的な側面に取り組むことにより、研究の焦点を人間に移行させました。第四及び現在の波は、ポジティブ心理学と認知神経科学からの見識を合わせ、身体的及び精神的幸福、創造性、感情、道徳的価値観、そして自己実現のような要因を考慮するよりいっそう人間中心の視点を呈しています。

未来に対してリックライダーの第三段階であるスーパーAIの到来を依然として予想する人もいれば、スーパーヒューマン(つまり、ヒューマン+スーパーAI)の実現を望んでいる人もいますが、現状としては、AIの進化とともに、HCIの研究も進められているのです。しかも両者はコインの両面のように融合してゆくように見えます。

つまり、やがて、リックライダーの第二段階に入るわけですが、一体どのように共生(Symbiosis)にするのか、学界では「人・AI融合」「人・コンピュータ統合」など様々な見解を示していますが、人間が単なるテクノロジーの消費者の立場で、さらなる効率と生産性をシステム的にした考えが多く見えます。

人とテクノロジーの理想的な関係を探求

そこで、人類社会の未来を見据え、人とテクノロジーとの理想的な関係像について、新しい概念Human-Engaged Computing (HEC)を提案しました。HECは、HCI研究の第四の波の目標の一部を共有していますが、人間の全潜在能力を実現するための、人間をエンゲージさせる方法を明らかにすることに焦点を置いている、第五の波になり得ます。それは、リックライダーが明示した第二段階の「人間とコンピュータの共生」の概念と、易経のような“陰・陽”や中庸のような “適切なバランス”という東洋哲学とを、結び合わせたものです。

HECは、人間の本来の能力と技術力の相乗作用(シナジー)を利用して、人間の可能性を最大限に発揮し現実世界の複雑な問題を解決しようとする考え方ですが、言い換えれば、AIなどテクノロジーの継続的な研究開発に伴い、人間の可能性や将来性、潜在的能力(特に、美的感覚、マインドフルネス、注意力・集中力、自制心、自発性、自己移入、そして信頼心などのソフトスキルやマインド)にも目を向けて、それらを向上させるような方向を目指すべきなのです。そのため、人間の能力(特に内在的能力、智慧)を向上させる魅力的なテクノロジーも併せて研究開発していく必要があるということです。

人間の能力(特に内在的能力、智慧)向上は、単なる個人の精神的側面だけでなく、人類共通の多くの問題(環境、経済、国家と文明の間の紛争など)の解決に繋がるのです。全人類の半数以上の人々の智慧が向上すれば、さらなる平和、生態環境に配慮するよりも長期的な視野をもつ経済発展に繋がり、持続可能な社会の実現の可能性がより高くなり、人類全体の幸福を促進します。


※画像はイメージです

HECは、テクノロジーやインタラクションによる副作用を「抗生」(Antibiosis)と表現しています。つまり、技術が人・未来に与える副作用を最小限に抑えるべきということですが、工業化時代以来、技術の発展には副作用も伴います。「愛するということ」(原題:The Art of Loving)の著者エーリッヒ・フロムは、人々が忍耐を失い不安になるのはスピードを求める工業化システムからもたらされたものだとしています。

この現象を加速させたのは最近の情報技術です。電子ゲームを含む現在のスマート製品は、私たちに多くの新しい問題点をもたらしました。それは、大量の情報や生活様式の変化が、人々に運動不足などの身体疾患だけでなく、多くの精神疾患を引き起こしているという点です。米国、日本、英国、韓国では、4〜5人に1人の割合で精神疾患を引き起こしていることがわかっています。

このため、マインドフルネスの著書、国際会議、ジャーナルや関連技術製品などが近年増々注目を集めています。このような現状を踏まえ、人間の持つ能力向上という観点に立った技術開発を目指すHECの概念は、上記の問題を改善する新しい機会と一般的に認知され、さらに普及するべきだと私は考えます。

私の研究の礎は母校東京電機大学にあり

私は2020年度情報処理学会フェローの称号を授与されました。選定理由は長年HCIおよびHECに関する教育・研究への貢献が認められたことによるものですが、これには、母校での学習、研究活動の経験が深く影響しています。

前述したHECのような考えにたどり着くことができたのは、恩師である守屋慎次先生のご指導を受けながら、学部生時代から卒研、修士課程そして博士課程と一貫してHCI(当時ヒューマンインタフェース)の研究を続けてきたからです。その間、「教育奨励賞」、「東京電機大学研究振興会論文賞」(2回)、「丹羽保次郎賞」受賞の機会もいただきました。

そして何よりも、学生時代の研究活動を通じて、初代学長である丹羽保次郎先生の理念「技術は人なり」を実践し、薫陶を受けたことが礎となっています。まさしく、「人」すなわちヒューマニスティック(人間性の尊重)に目を向けたのが私の提案するHECなのです。

そういう観点からHECは従来のHCIとは異なる点が3つあります。1つ目は、HECという名称の中の“Engaged”は、ヒューマニスティックを体現するEngagement(エンゲージメント)を表しています。2つ目は、その概念においてヒューマニスティックの精神を強調しています。3つ目は、従来のHCIが人間の変化を受動的に発生させるのに対し、HECは人間の変化を能動的に発生させる点です。

次世代の優秀な技術者にとって、HECが提案するエンゲージメント(主観的な学習効率、創造性、問題解決能力など、人間の潜在能力が最大化される状態)に基づいた意識・センスを要し、人間のエンゲージメントを引き出す技術を研究開発することが主流になることを私は期待しています。

私は在学中、多くの教職員の皆様に多大なご支援をいただきました。これは、これまで10ヵ国以上の留学生を含む多くの学生の教育に従事し、20名以上の博士・ポスドクをアジア、欧州、大洋州にICT人材として送り出している原動力です。今後、私も微力ながら母校の発展のためにお役に立ちたいと思っております。

これからも、電大人としての誇りを忘れず、Human-Computer Interaction (HCI)およびHuman-Engaged Computing (HEC) 分野で更なる貢献ができるよう邁進し、世の中に役立つ人材を育てていきたいと思います。今回このような思いを改めて心に深く刻める機会を与えて頂いたことに深く感謝申し上げます。

1996年修了
大学院工学研究科情報通信工学専攻博士後期課程
任 向実