母校支援

異質の道を歩んだ、ひとりの東京電機大学卒業生

理科系出身の営業マン誕生

私たち昭和7年生まれの小学校時代は「十五年戦争」の真っ盛り。当然その一環に「お国の為に・愛国心育成」の教育があったことは否めない事実である。「雀百まで・・・」ではないが、決して忘れることはない。

東京電機大学卒業時にも、その教えを忘れることなく、特別国家公務員試験を経て自衛隊幹部候補生(当時まだ防衛大学卒はおらず、一般大学卒のみ・受験票参照)へ。然し、生来の虚弱体質が災いして身体検査が通らなかった。翌年再び公務員試験を受け(他に就業中)第一次は通ったものの、体質は変わっておらず母親の懇願で身体検査は諦めた。


国家公務員試験受験表・1次と2次

そのため就活に遅れ、この年は就職難のときで、遅れはしたが日立家電系の営業マンとして社会人生活に入った。当時家電ブームに至る初期であり、日立としては文系の大卒者に電気を教えるより、理系の大卒者に約束手形や小切手について教えた方が得策(と聞かされた)として理系出身の営業マンを採用することになった。従ってその時点で「生産に従事する仕事」とは疎遠になってしまった。

或る時「日立冷蔵庫」が動かないというクレーム、サービス担当は不良品だという。早速現地に行ってみた。戦後の復興が完全に終わっていない時、配電網も完璧ではなかったのだろう。柱上変圧器からの配電線に分岐が多く、一時的に末端の邸宅では「90V」近くまで電圧降下することがわかった。なんと電気科出身の功名と言うべきか。

夢だったアメリカへ渡り、学んだ多くのことがその後の糧に

家電流通業界に身を置き仕事する中で、日立、松下、ソニーなどが輸出に力を入れていき、主な市場がアメリカという。ここでアメリカの夢が呼び起され、アメリカの流通業はどんなか?という「知りたいこと」が生まれた。企業にとって例のない「実務研修」の目的で、伝手を頼りに渡米した。オリンピック熱がまだ冷めない1965年の春だった。

彼の地・アメリカに足を踏み入れた途端に「彼我の差」に見舞われる。これでは戦争は負けるはずという第一印象。ロス国際空港の隣接地で石油掘削ポンプが活動していた。「石油が欲しいからとアメリカと戦争するなんて馬鹿なことを。石油が欲しければ交渉していけば輸入することが出来る。陛下のお心に反して何ということを」と陸軍省兵務局長の田中隆吉少将を怒鳴りつけた石原 莞爾(いしわら かんじ)。「デトロイトの工場を見れば、この国と戦争してはならない」とわが父は山本五十六に教えられたと言う。

アメリカでの研修は実に嬉しい出来事ばかり。仕事とは別に一般のアメリカ人の暮らしに接することが大きい。好戦好きな人種ではなく、平和を愛する穏やかな人々であり、この国民の考えは、必ず安保にも影響するだろうと思ったほどだ。

お世話になったこの企業「ピープルス」は当時240店舗で、薬を中心にしたスーパーで、後の「マツモトキヨシ」や「スギドラッグ」と似た形態であった。

会社の配慮で「バイヤーズ・ルーム」を除く全ての部署で学ばせてもらった。電算室では生まれて初めて社内の統計「仕入れ支払い」や「給与計算」等々、電算機の威力をまざまざと見せられた。7500人の給与計算(週休)が一時間ほどで社の小切手で発行され、署名もヘクト印刷で示される・・・・この驚き。


週給は小切手で支給

セールス・オージェット課では、仕入れ商品の統計や支払いについて学ばせてもらった。特定の商品の仕入れから売価に至るまで「バイヤーとの個別契約」で責任を持たされていることで、秘が多く立ち入りは不可であった。私は「B-1ビザ」のため給料はもらえなかったが、会社の好意で滞在宿泊費用等は負担して頂いた。

企業内以外では「セブンイレブン」「ファストフーズ」から当時盛んであった「通信販売」について徹底的に教えてもらい、実践も体験できた。

戦後70数年の今、問屋制度のなくならない日本の流通業で、アメリカ並みに実現できないのは「セールス・レップ制度」である。日本においては昔からの問屋制度を打破するだけの度胸と人材に恵まれないことゆえ致し方ないとは思うものの、一方で日本に「セールス・レップ」が導入されたら、販売方式が大きく変わるものと思っている。

一つの懸念は問屋・卸売業で働く人材の処遇が問題として残るであろう。短いながらこの時の体験が、サラリーマン生活の糧となり、満72歳まで定年もなく働くことができたと思っている。


アメリカのストアクーポン

サラリーマン生活の最後のプロジェクトもアメリカで

ところが昭和45年のこと、思わぬ出来事に遭遇する。松下電器が提唱する地区販社制度に日立も応じたのであった。つまり東西南北と千代田の5地区に夫々販売会社を設立するもので、社員には進路相談の機会が与えられたが、これが一つの潮時とばかりに海外に目をむける仕事を狙って、幸いにも商社に転職することが出来た。

それからの人生「紆余曲折」いろいろと体験して来たが、技術者として生産に従事する職場には立てず、自ら電気に関する新しい諸技術とは疎遠になってしまった。然し、企業における仕事には金融業務を除いては、従事することが出来て、友人・知人の縁で企業のお手伝いが出来たと思っている。

サラリーマン生活の最後ともいうべきプロジェクトが回って来た。本来の企画部を担当する傍ら、現地・ニューヨーク郊外の「ゴルフ・リゾート」の買収と、その会社運営の業務であり、その後再三太平洋を横断する仕事となった。そのためニューヨーク同時多発テロにも接し、多くの知り合いの不幸にも接した。


今は無き「ワールド・トレード・センター」の夜景・イーストリバー側から

アメリカにおけるゴルフ事情は日本とは違い、その運営は大変だった。まず社員は全てアメリカ人(私の片腕になってくれた部下ひとりを除き)で、皆個性が強く、移民国家だけに出身や母国が違う。それを一つの器でまとめなければならなかった。

然し、このゴルフリゾートの経営を通して「日本文化」を社員や顧客に知ってもらうようになった。お粗末ながら、一つ例を挙げると、ゴルフ場クラブハウスの食堂で「のり巻き」を出してみた。アメリカ人はひとりも手を出さない。外側の黒い巻物は「怖い」という。意外なアメリカ人の反応で、そのあと海苔の内巻きにした。地元スーパーでものり巻きは「内巻き」が通例になったようだ。


海苔の外巻きが嫌われて、海苔を内巻きにして売り出したスーパーの一齣

また、従業員用の食事に出した「カレーライス」が顧客に見つけられ、希望され、「美味い」と好評で爾来(じらい)メニューに加えている。こんな小さなことも生意気に言えば「日米親善」かも知れない。

ゴルフ場再建のためのプロジェクトとして部下と共に起草した原稿が別にあるが、東京電機大学には縁がないようなので別の機会に譲ろう。


私の担当したゴルフリゾートのコースで大好きなカット(自撮りです)

ありがとうございます、東京電機大学

想い起こせば電大卒業から丁度50年で、サラリーマン生活の幕を閉じたが、その根底には、丹羽学長や蓮見教授、前川教授の薫陶を賜り、東京電機大学を卒業させて頂いたことがあると常に忘れてはいない。

十年ほど前から、「戦前と呼ばれる時代」と題して昭和についてお話をさせて頂いているが、戦後生まれの多くなった今、「昭和遠くなりにけれ」といことを痛切に感じている。最近の日本の生産業は過去の「Japan is Number One」から衰退していることが懸念されるが、この生産業の隆盛には、多くの東京電機大学の卒業生の功績があったことから、至極残念でならない。

多くの東京電機大学卒業生のご活躍を祈念するとともに、大学の研究の成果が、国の発展や人々の幸せに貢献できることを切に願っている。

別添えで「ユーロスター体験記」を掲載いたしますので、併せてお読みください。

「ユーロスター体験記」PDF

1955年卒業
工学部電気工学科
野澤 節郎