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「125歳まで生きる」に挑戦中!その秘訣とは?

10年前、60歳だった私は、当時千葉県内にあるガス会社系列の会社を38年間勤め上げ定年退職しました。50代の頃から、定年後の人生をどう過ごすかを考えており、年金だけで大丈夫なのだろうか、という不安もありました。

実際、60歳目前に会社から雇用延長の話がありましたが、収入も大幅に減少する上に、1年毎の更新という条件であったため、再び65歳から新しいことを始めるより、今切り替えて新たなスタートを切る方が良いと考え、後ろ盾も無いまま会社を退職しました。

60歳で還暦を迎えた時、『還暦』すなわち、「自分が生まれた年の干支に還る」ことの意味を噛み締めながら、一巡目が終わり、二巡目も全うし、人生の目的を「元気に楽しく125歳まで生きる」ことに決めました。言霊ではないですが、今では周りの人たちにも言い続けています。


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そこで、125歳まで生きる条件を考えてみました。

その1:125歳まで生き続けるための経済基盤

その2:自分のコミュニティを構築する(孤独では意味がない)

その3:周りに迷惑を掛けない健康な体

以上が最低の条件と考えられます。そこで今回は、それぞれの内容について、現在私が実践していることをご紹介したいと思います。

その1:125歳まで生き続けるための経済基盤

勤め人として働くのは難しいので、生涯現役として社会で活動することを目指し、個人事業主という道を選びました。現在の事業は知人から紹介されたもので、孫の世代まで続けられる持続的な収入を生み出すビジネスです。

子供や孫の世代は、私たちよりもさらに厳しい世界に直面することになると思うので、この持続的な収入を通じて、孫たちが好きなことを実現できるようにすることを目指しています。もちろん、私自身も一年の半分は旅行を楽しみ、また、より多くの税金を納めることで社会に貢献したいと思っています。


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その2:自分のコミュニティを構築する

たとえ125歳まで生きたとしても、孤独な人生では意味がないと思っています。退職直後、住んでいる地域の町内会の長老から町内会長に就任するよう要請を受け、これからの生活で地域社会に貢献することを決意しました。ところが、私の住む地域は想像以上に高齢化が進んでいました。

60歳の私でさえ若手の部類です。町内会などの地域団体では、さまざまな役割を担い、敬老会や地域のお祭り、運動会などに協力し、親睦会にも積極的に参加し、地域の中心的な人たちと親しい関係を築くことが出来ました。その中で、これからの高齢化が大きな問題であることを実感したのです。

個人事業主として新たな人脈を築くために、地元の「倫理法人会」という中小企業経営者が集まる団体に加入しました。当会で活躍しているメンバーは主に40代、50代の若い人が中心であり、彼らから多くの刺激を受け、これまでとは異なる人間関係を築けるようになりました。何しろ、ここでは会社の看板や肩書きが通用しない独特の世界ですから。

また、現在の事業活動は人との出会いや仲間づくりを主要な目的としています。その結果、これまでの人生で一番、全国に老若男女問わず新しい仲間が増え、お酒を飲んで楽しいひとときを過ごす機会も増えました。会社人生では決して出会うことのできなかった人たちと仲間になれたことに大変感謝しています。

その3:周りに迷惑をかけない健康な体の維持

私自身、もともと運動が好きでした。40代に入り、学生時代に剣道をやっていた関係で、高校の先輩に誘われ、近くの少年剣道スポーツ団の指導者として、主に日曜日に活動し、貴重な経験を積みました。しかし、少子化の影響もあって子供たちが減り、60代になると足が遠のいてしまいました。

同じ頃、スポーツクラブに入会して筋トレをしようと思っていたのですが、スタジオで当時流行していたエアロビクスに魅了され、60歳頃まで続けました。しかし、エアロビクスの人気が衰え、現在は筋トレに切り替えて継続中です。

運動することによって他のことを忘れて、ストレス解消になるので、精神衛生にも良いと感じています。また、多くの飲み仲間もできたので、これは貴重なコミュニティです。これからも筋トレを続けるつもりです。


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もっと人生を楽しもう!

125歳まで生きることを決意し、第二の人生をスタートした私は、現在70歳になり、ますます前向きな気持ちになっています。私の世代では、ネガティブな考え方をする人が多いので、もっと人生を楽しんでほしいと思います。よく「長生きしたくない」と言う人がいますが、その気持ちは今を楽しめていないからだと思います。私は第二の人生を「楽しむ」ことをモットーに掲げ、事業活動も含めて精力的に活動していきます。

昭和50年卒業
工学部第一部機械工学科
羽田 泰弘